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1974年にはセ・リーグのシーズン最多犠打、チーム最多盗塁を記録。
その後故障に泣かされ、代打一本の現役生活。
ファンに熱烈に愛され、現在は阪神タイガースOB会会長。
プロ野球選手/野球解説者
「野球、人生、縁、絆」
川藤節満載の元気の出る話をお聞かせします。
昭和24年(1949)7月5日、福井県美浜町に生まれる。
昭和42年(1967)、福井県立若狭高校卒業後、ドラフト9位で、阪神タイガースに投手として入団。
のちに、外野手に転向する。昭和49年(1974)には106試合に出場、セ・リーグのシーズン最多犠打、チーム最多盗塁を記録。
レギュラー獲得かと思われたが、その後故障に泣かされ、昭和51年(1976)”代打一本”で勝負を賭ける事を決意。『一振り人生』が始まった。
昭和58年(1983)シーズンオフ、球団からのクビ宣告された際に、「給料はいくらでもいいから野球をやらせてくれ」の名セリフを残し、バット一本で昭和61年(1986)まで現役を張り続けた。しかし、一度もレギュラーになることもなく、生涯安打数211本プレイヤーが19年間もクビにならなかったのは、その勝負強さと共に、人柄に負う部分も大きいと思われる。
昭和60年(1985)、阪神タイガースが、21年振りのリーグ優勝を果たした時、吉田監督、主砲・掛布に次いで胴上げされた事が、”縁の下の力持ち”的存在で、チームに貢献していた事を物語っている。
昭和61年(1986)には、監督推薦でオールスター戦に出場。現役生活にピリオドをうつ。引退に際して「引退試合」を催したのも”異例中の異例”の事である。その豪快なキャラクターから”浪花の春団冶”と呼ばれ、スタープレーヤーが少なくなったと言われる近年のプロ野球界の”最後の侍”であったと思われる。
昭和62年(1987)から3年間は、讀賣テレビの野球解説者として「プロ野球中継」、「週刊トラトラタイガース」「ズームイン朝!」にも出演し、講演会やタレント活動にマルチぶりを発揮。独特の”川藤節”を展開し、「奔放な中にも選手に対する思いやりの感じられる」トークで人気を博していた。
平成元年(1989)には、中村監督就任と共に、阪神タイガースに総合コーチとして復帰。選手、首脳陣、フロント間のパイプ役を勤めた。
平成3年(1991)、阪神タイガース退団。甲子園最終戦でのチーム全員の挨拶の時、ファンからいちばん多かった声は、中村監督でもなく、「川藤やめんなよ」コールだった事が、選手生活引退から5年経ってもファンの間では、”浪花の春団冶”川藤のイメージが脳裏に強烈に焼き付いていることを物語っている。退団後依然ベテランから若手に至まで選手間の人望は厚く、ユニホームを脱いだ現在も良き相談相手となっている。
平成5年(1993)、出身地である福井県から委嘱を受け、「福井県ふるさと大使」に就任。
平成7年(1995)、サントリー「新モルツ」CMに起用。新球団「モルツ」の錚々たるメンバーの中で『代打男・川藤』として、その存在を強烈にアピール。現在、再び讀賣テレビの野球解説者として「プロ野球中継」他、出演中。また、プロ野球マスターズリーグの「大阪ロマンズ」に所属。その他にも講演会、トークショー、野球教室、バラエティ、CM、ドラマ等、タレントとして幅広く活動中である。
平成20年(2008)、TBS系の人気ドラマ「ROOKIES~ルーキーズ」の安仁屋 恵壹(市原隼人)の父役を好演。7月には久々の新曲「望郷甲子園」を発売。NHK「きよしとよしみの浪速ナイトショー」で熱唱するなど話題になった。平成22年(2010)11月27日、阪神タイガースOB会 会長に就任。
【現役通算成績】 771試合出場・打率2割3分6厘・16本塁打・108打点
【その他成績】 オールスター出場:1回(1986年) 、日本シリーズ出場:1回(1985年)
テレビ
読売テレビ 朝生ワイド す・またん!
毎日放送 魔法のレストラン
テレビ朝日 シルシルミシル
NHK 鶴瓶の家族に乾杯!、他多数。
CM
「サントリーモルツビール」
ACジャパン 「いっちょcomingダンス」(※2012年大阪地域キャンペーン)
阪神電車・阪神甲子園球場 「マナーキャンペーン」
大使
「福井県ふるさと大使」
「北海道旭川市観光大使」
「若狭おばま御食国大使」
著書
「代打人生論 ~ピンチで必要とされる生き方~」 (扶桑社新書)
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