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北海道出身。割烹「車屋」や料亭銀座「金田中」、割烹新橋「たかまつ」で修業し、第 33 次(1991 ~1993)・第 50 次(2008~2010)南極地域観測隊に越冬調理担当として参加。昭和基地で 腕を振るう。2008 年は地学調査隊のために作成したフリーズドライ食品を宇宙食としても提供。1993 年~2008 年、豪華客船「飛鳥」「飛鳥 2」に乗船し料理人として活躍。世界 9 周、約 70 か国 200 都市を巡る。2010 年に帰国後、横浜関内で旅好き・船好き・南極好きが集まる「Bar de 南極料理 人 Mirai」をオープン。オーナーシェフを務める。そんな篠原洋一さんにお話を伺った。
(text:大橋博之、photo:小野綾子)
篠原洋一 高校2年生の頃,札幌にある割烹で皿洗いのアルバイトを始めました。しかし、皿洗いは退屈で、調理場の方に行っては先輩を手伝っていました。先輩にはよく怒られましたが、美味しいものを食べさせてくれました。私は食べることが好きで、それが楽しくて、アルバイトを続けていました。
すると、高校3年の冬休みに親方が「お前、卒業したらどうするんだ?」と聞くんです。「板前になりたいので調理師学校にでも行こうと思っています」というと、「そんなところに行かないで、うちに来い。面倒を見てやる」と。それで、そのままその割烹で働くことになりました。
篠原洋一 私が卒業した北海高校は、自宅から近く、卒業後もよく遊びに行っていました。割烹で働きだして1年ほどした頃、図書館司書の先生が、北海道大学に面白い先生がいると紹介しくれたんです。
その先生は「遊びにおいで」と言ってくれる、とても気さくな先生でしたが、実は、北海道大学の低温科学研究所の教授で、日本隊で2回、アメリカ隊で2回、南極に行っている雪氷学の重鎮だったんです。
先生に会いに行くとよく南極の話をしてくれました。特にオーロラの話が興味深く、、「先生、もっとオーロラのことを聞かせてください」と頼むと、先生は「これ以上、オーロラの話をしても、君には100分の1も伝わらないだろう。だから、自分の目で見なさい」と言われました。「南極なんて偉い人しか行けないじゃないですか」と言うと、昭和基地では基地を維持するための設営隊員も必要で、料理人も越冬調理担当として参加できることを教えてくれました。そして、「だから、君にもチャンスはある。ただし、そのためには6~7年修行をして、どんな料理でも作れるようにならないとダメだよ」とアドバイスをくれました。
板前の修業中は怒られてばかりで、しかも朝早くから夜遅くまで仕事が続きます。それでも、頑張れば南極に行けるかもしれないという希望を持って修行に励みました。ベッドの枕元に南極観測船「白瀬」とオーロラの写真を貼って、朝起きたらそれを見て「南極に行くぞ!」と誓いながら毎日、頑張りました。
篠原洋一 6~7年位経った頃、先生に「南極に行きたいです」と言うと越冬調理担当に推薦してくれました。
しかし、最初の年も次の年も落ちてしまいました。そのとき先生に「もう、諦めた方がいいですかね」と弱音を吐くと、先生は「たかが2回落ちたくらいでなんだ。3回でも10回でも挑戦するとなんで言えないんだ!そんな気持ちなら辞めちまえ!」と怒られてしまいました。「すみません。絶対に行きたいので、毎年、推薦してください」と謝ってね(笑)。結局、3回目で通りました。丁度、先生に話を聞いてから10年目でした。
篠原洋一 それはないと思います。先生は私が越冬調理担当に受かっても受からなくてもどちらでも良かったのでしよう。でも、夢を持ってチャレンジするという精神を教えてくれたと思います。
篠原洋一 南極に行きたいという想いが強くなればなるほど、「行って何もできなかったらどうしよう」という不安が大きくなりました。札幌の割烹「車屋」で働いて1年程して上京し、「車屋」の新宿本店に転勤になったのですが、当時の私は、20代は寝ないでも死なないと思っていたので(笑)、お店が終わった後にいろんな飲食店でアルバイトをし、そこでいろんな料理を覚えました。
篠原洋一 私は南極で月に2回はパーティを開きました。その時は大きな蟹やお肉を出します。でも、それ以外は献立を考えません。隊員に「何が食べたい?」と聞いて作っていました。
というのは、最初から毎日の献立が決まっていると、隊員の気分が沈んでしまうからです。隊員からの「〇〇が食べたい」というリクエストに「ムリ。できない」といったネガティブな言葉を返し続けると、やがて隊員のメンタルがやられてしまいます。料理人が最も気を付けないといけないことは、隊員のメンタルコントロールなのです。
篠原洋一 南極行きが決まり、晴海で南極観測船「白瀬」に荷物を積んでいるとき、目の前に停泊していたのが初代の「飛鳥」でした。南極から帰ったとき、お店に戻って来いとも言われていましたが、私は食べることの他に旅行も好きだったので、「飛鳥で仕事が出来れば楽しいだろう」と思いました。また、飛鳥だと私が修行をしてきた懐石の技術も活かすことができると考えました。
そこで飛鳥で働くため、知り合いに「飛鳥で働きたい」と言いまわっていました。そのうち本当に紹介してもらえることになりました。しかし、面接に行くと「篠原さんは欲しい人材です。でも、船は誰かが辞めないと加わることができないんです」と言われました。私は絶対に乗りたかったので「空くまで待っています」と言い、アルバイトをしながら声がかかるのを待っていました。すると4か月後に空きが出て、私は念願の「飛鳥」に乗れることになりました。
篠原洋一 飛鳥で働いていたとき、私の部下が朝、調理場にいなかったことがありました。遅れてくると酒の匂いがしたので「ダメじゃないか!」と怒ったら、先輩が、「注意するのは大事。でも、怒り過ぎてはいけない」と言うんです。「船という閉鎖空間で怒られると逃げ場がないのでメンタルがやられる」と。そして、「262の法則というのがある。10人いたら仕事ができる人が2人いて、普通の人が6人。ダメな奴は2人いる。そんなものだと思え」と教えてくれました。それを聞いたとき「なるほど」と思いました。
例えば、コロナが流行っている状況の中、電車に乗っていて、マスクをしていない人が1人いたら、つい、腹が立ってしまいますよね。でも、262の法則で考えると、10人のうちマスクをしていないのが1人だけなら、優秀です。そう思うと怒る必要もないと気づけます。
みんなで「あの1人はダメだ」と言うと、その人がストレスのはけ口になってしまうだけです。ダメな奴を排除してもまた、ダメな奴は出てきます。
それは心も同じです。2つ良いことがあり、6つが普通。2つ嫌なことがあるのが当たり前。その嫌なことが増えてきたときは休んでみる。嵐のなかを突っ込んで行く船はありません。必ず迂回をします。無駄な怒りを抑えることで職場が明るくなります。
そんなふうに何でも262の法則で考えてみるのが良いと思いますよ、というお話をしています。
篠原洋一 ただし、諦める前に乗り越えられる壁は乗り越えなければなりません。諦めないことを継続すれば達成につながります。それは北大の先生に言われて分かったことですし、私も諦めなかったから大きな壁を乗り越えられたという体験があります。
あと、言い続けるというのも大事です。私は「南極に行きたい」と言い続けていました。最初、親方に言うと「お前はアホか!南極に行って和食の修業ができるか。そんなくだらない話をするんじゃない!」と怒られました。でも、「南極に行きたい」と言い続けていると、親方は「なんで、南極に行きたいんだ?」と聞いてくれ、そのうち「じゃ、頑張ってみろ」と応援してくれるようになりました。飛鳥に乗るときも同じです。やりたいことは言い続けるのがいいと思います。
それと、18歳から25~6歳までは何でもいいので仕事を徹底的に覚えることです。すると、後の3~40年はその覚えたことをアレンジしながら仕事をすることができます。基本がないと何もできません。私は南極に行くまでに10年かかりましたが、それが良かったと思います。もちろん、メンタルが不調なら辞めてもいいですが、自分がやりたいことを諦めるのではなく、違う場所でやりたいことを追い求めることは大切だと思っています。みんな、将来の夢や希望を持つことが大事です。
篠原洋一 多いのは建築会社系です。そのような会社では安全に関する大会が開かれており、特別講師として呼ばれます。お話しするのは南極観測隊や飛鳥での心理的安全性やコミュニケーション。メンタルがダメージを受けないような働き方です。メンタルが不調だと事故が起こりやすくなりますからね。
篠原洋一 世界70か国、200都市に行っていますが、逆に言うと130か国には行っていません。行ってない国に行きたいですね。行ってみたいところはたくさんありますが、横浜関内で旅好き・船好き・南極好きが集まる「Bar de 南極料理人 Mirai」をオープンし、オーナーシェフをやっているので、ちょっと難しい。でも、世界中を旅しながら稼ぐ方法はないかと考えています。
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