講演依頼や講演会の講師派遣なら相談無料のスピーカーズ Speakers.jp
23年間の専業主婦生活を経て、44歳で駅弁販売のパートデビュー。徐々に実績を上げ、49歳で契約社員、52歳で正社員へとステップアップ。53歳の時に異例の抜擢で大宮営業所長となり、就任1年目で駅弁売上げを5000万円アップさせ、年商10億円超を達成。カリスマ営業所長として活躍。2013年12月に定年退職後も、引き続きパート社員「駅弁マイスター」として現場の指導にあたっている三浦由紀江氏に、NHK「プロフェッショナル」でも話題となったその仕事術を伺った。
(text:伊藤秋廣、photo:小野綾子)
三浦由紀江:はい。定年退職後、パート社員としてシフト管理や販売スタッフの指導を行ったり、時には販売の第一線に立ったりすることもあります。
今でも、けっこう売りますよ。現役のスタッフには負けません(笑)。現場は私の原点でもありますし、とても楽しいですから、こうして講演のお仕事と並行して、今でも続けさせていただいています。
三浦由紀江:非常に多岐に渡っていますね。
大手メーカーや銀行といった企業様からのご依頼が多いです。あるいは、中小企業の経営者様の集まりの場に呼ばれたり、商工会や法人会、教育関係者からご依頼を受けたりすることも多いです。
とはいっても、固いテーマや内容でお話するわけではありません。ですから“今までで一番楽しい講演でした”といわれるケースも多く、“いつも寝ている人がいるのに、今日は誰も寝なかった”とおっしゃられることもあります。
内容については、出席者の皆さんに合わせて変えていきますが、基本的な流れとして、前半部分では、“自分はどうやって売ってきたか?”“現場でどういう仕事をしてきたか?”という話を、より具体的なエピソードを交えてお伝えします。
時には“クレーム対応”に関する事例も織り交ぜますね。講演の後半は、どうして44歳になるまで社会経験がゼロだった私が評価されたのか、どのような気付きがあって、どのように成長をしていったのか、その過程についてご説明します。
私はパート社員として管理される側も、そして社員になってパートさんを管理する立場も経験しました。
ですから、時には管理する側の方々にとって、耳の痛い話をすることもあります。
私の講演を聞いてくださった現役のパートさんたちからは、逆に「今日は痛快でした。ぜひ、ウチの店長に聞かせたかった」という声が寄せられます。
部下やパートさんに対して、“常にお客様目線を持ちなさい”と説教する人もいますが、私は自分がパート社員だった時代から現在に至るまで、いつだって“自分がお客様だったら”という視点しか持っていませんでした。
44歳になるまで、一度も社会経験がなく、ずっと消費者の立場にあったからかもしれません。当時から、会社に対してけっこう“モノ言う”パートではありましたが、基本的には、単なるパートの立場を超えた販売意欲があったし、現場で感じた正論を発信していたから、会社もそれなりに認めてくれたのでしょう。
今思えば、厄介なパートだったと思いますよ。
でも、そんな私を理解して、チャンスを与えてくれた上司がいた。
だから、私自身が大きく変わることができました。非常にありがたいことでしたね。
後に私自身、パートさんを指導する立場になっていくのですが、そこではじめて、当時の自分の置かれた状況を冷静に分析するようになりました。
今では、おとなしくて何も意見がなく、“私は時間内にいるだけでいい”という素直なパートさんは、私の中では非常に使いづらくて、どちらかというと、“ちょっとこんなのおかしいじゃないですか?
”“社員さん、ひどいですよね”と不満を口にしながらも頑張っている人が大好きです。
そういう人を認めてあげて、力を引き出してあげると、その批判が提案に変わっていくんです。
三浦由紀江:やはり中間管理職の役割について課題意識があるのではないでしょうか。
仕事に向かう姿勢によって生産性が大きく変わってくるということは、私だけでなく、多くの管理職の方々が実感しているところだとは思います。人間はやる気になった時に、すごい能力を発揮します。特に男性のほうがそういった傾向が強いように思えます。
女性はどちらかというとコツコツ積み重ねていくので、仕事でもいきなり卓越した能力を発揮するようなことはありませんが、男性が一度やる気になると、一気にポテンシャルが高まります。生産性が求められる時代ですから、そういった個々の力を高めるのが重要です。
どうやってモチベーションを高めていくのか、そのヒントを探すために、私の話が求められているのかもしれませんね。
三浦由紀江:ずっと働きたいという意識を持ちながら過ごしていたのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。
私の父はなかなか先進的な考えの持ち主で、当時から“女性も働くべき”と言っていましたし、私も少なからず影響を受けていました。
ところが、21歳の時に出産して大学を中退し、一度も社会に出る機会もないままに私の長い専業主婦生活が始まってしまったんです。
何も仕事をしないというのは自分の中で納得できない部分もあったのですが、大手優良企業に勤めていた友人も、結婚して子どもができた時点で退職が余儀なくされていたような時代ですから、もうどうにもなりませんでした。
主人も“女性は黙って家にいてほしい”というタイプ。まったく仕事をしない主婦仲間三人で毎日のようにお茶を飲みながら、“私たちこれでいいのかしら?”ってぼやく日々を過ごしていました。
そんなとき、当時大学一年生だった娘が“なんでお母さんぶらぶらしているの?”と言いだしたんです。
それで主人に交渉して、パートだったらいいだろうという話になったんですね。
後から聞いた話ですが、わざと娘は乱暴な言い方をして、私が外に出られるようにしてくれたらしいんです。
元々、“お母さんは家にいるべきではなかった”と、そういってくれたんです。
三浦由紀江:年齢が年齢ですから選択肢が非常に少ないんですね。
ようやく“40歳くらいまでOK”という、喫茶店のランチタイムと立ち食い蕎麦屋のパートを見つけてきました。
蕎麦屋にしようと思ったら、娘に“蕎麦屋は大変だから、駅弁販売のほうが絶対楽だよ”といわれたんです。
彼女のほうがアルバイト経験も豊富ですから、私よりは事情はよくわかっていて、“40歳くらいまでと書いてあるけれど、絶対に大丈夫だから”と背中を押してもらい、44歳にしてついに社会人デビューを果たしました。
実際に働いてみたら、身体は疲れましたが、想定以上にすごく楽しかったです。
お客さんとやりとりをしながら、お弁当が売れるのが楽しくて仕方がありませんでした。
当時は、今と違って駅の構内におけるお弁当の販売は弊社が独占状態にありました。
例えは悪いですが、釣りをしていて“入れ食い”のような感覚。
飛ぶようにお弁当が売れていったんですね。
たくさん売ろうが売るまいが、自分の給料には影響はないのですが、持ち前の負けず嫌いの心がむくむくと湧き上がってきました。
自ら工夫を重ねながらどんどん売って、自分の売り場のお弁当が売切れたら、しまいには苦戦している他の売り場の商品を持ってきて、売るようにまでなったのです。
三浦由紀江:与えられた仕事をやっているより、自分で考えて工夫したほうが楽しいし、時間が過ぎるのも早いですよね。
なぜ皆さんは、自分で工夫して、“これをもっと売ろう”とか、“これを一時間以内に売るから見ていて”みたいな楽しみを見出さないのだろうと不思議に思っていました。
“常に楽しく”という意識が自分の中にあって、まずは“一緒に働く仲間と一日、この売店で楽しく過ごしたい”という気持ちがあって、お弁当が売れたら当然楽しいのですから、仲間と一緒に成果を上げて、共に楽しみたいと考えるようになったんです。
実は働くのは初めてでしたが、PTA活動に積極的に取り組むなど、多くの人を巻き込んで物事を進める感覚は身に着けていましたので、それが役に立ったのかもしれません。
やがて私の上司にあたる支店長が、“三浦さん、販売だけではもったいないから日勤帯で来社してもらって、販売の教育やパート全体の管理をやってもらいたい”とおっしゃいます。
いわゆるパートリーダーの立場となって、販売員のシフト管理や仕入れ調整などを任されるようになりましたね。
三浦由紀江:そうですね、半分はプレイヤーとして、半分はマネジメント業務に従事するというスタイルで仕事を続けました。特にシフトづくりは重要で、誰をどの売店に入れるのかを考える仕事です。
同じ時間帯に人がたくさんいる場合には調整し、勤務制限などをお願いするのですが、従来の社員はスタッフ全員、均等にカットしていったんですね。
要するに誰からも文句が出ないように調整するんです。
ところが、私は全然違います。
一生懸命に売る人だけを残して、頑張らない人はバシバシ、シフトからカットしていきました。
そういう人ほど仕事はだらしないし、人の悪口ばかりを言いますから。
また、すごく熱心に働くけれども、あまり忙し過ぎると能力を発揮しきれない人もいます。
そういう人には、それほど忙しくない売店に配置し、お客様ときちっと丁寧に対応してもらうように配慮しました。
三浦由紀江:毎日一緒に働いていたパート仲間ですから、それくらい理解できますよ。
そういったシフトを調整するだけで、面白いように売り上げもあがっていきましたね。
マネジメントについては素人ですから、パートリーダーになったばかりの頃は、自分のやり方を押し付けていたかもしれません。パートから契約社員、そして社員へと徐々に立場が上がっていくにつれて、自分の気持ちが優しくなっていっきました。
52歳の時に正社員として登用されるのですが、そのときに支店長から“今までのようなパートの親分でいてはだめだよ”と言われて、自分を変えようと努力しました。
メールぐらいは打てましたけれど、ビジネスソフトなんて使ったことはありませんでしたから、年の若い先輩社員からエクセルやワードを教わりました。
「おばさん、アタマが硬いからあなたが一回でわかることも、三回聞かないとわからない。
だから四回聞いたら、“いいかげんにしろ”と怒っていいから」と頭をさげると、「そんな丁寧な三浦さん、逆に怖いからやめて」なんて言われていました(笑)。
三浦由紀江:成果を出すことができた最大の要因は、以前、パートリーダーだった時代のやり方を踏襲したということです。営業所長になりたての頃は、非常に空回りしていました。
そもそも営業所長になる実力はなかったので、とにかく馬鹿にされてはいけないと肩ひじを張っていましたね。
マネジメントの能力もないのに、いきなり地位だけを与えられた、“成金所長”です。
正直に言って、営業所長になれと命じられた時、そもそも絶対無理だから、上手くいかなくて会社を辞めることになるだろうという予感がありました。
プレッシャーも大きく、常にストレスにさらされ、2週間で4Kgも体重が落ちてしまいました。もう私自身がピリピリしているから、周囲の人たちも寄ってこない。ぜんぜん、楽しくないわけです。
会社に入ってからずっと楽しく仕事をしてきたのに…。もう、前の職場に戻りたくて仕方がなかったです。
そんなときに、上司が「得意なところからひとつずつ、ゆっくりやっていいんだ。数字なんか見るな。お前らしくやれよ」と言ってくれたんです。その言葉で“私らしさ”を思い出しました。
元々、私は“頼み上手な三浦”で通っていたんです。みんな三浦のことは素直に聞くといわれていたんですね。
「どうしてだ?」と問われたときに「あなたは現場に行って動いてあげないでしょう。私は絶対にすぐ動きます。あなたは人を褒めないでしょう。頭を下げないでしょう。
この三つを実践したら、誰だって言うこと聞いてくれますよ」と豪語していた、その感覚を思い出したんです。
営業所長になってからの自分のやり方が悪かったのに気が付いて、元の“三浦流”に戻して、とにかく現場に出て行って、パートさんの話を聞いて、ひとつひとつやり方を変えていきました。そうしたら面白いように、急に結果が現れはじめたんです。
三浦由紀江:一度、仕事をやめてしまった人でも、絶対にやっていけると思います。でも多くの人は妙なプライドがあって、社会復帰を躊躇してしまっているように思えます。
若い時に頑張ることができる仕事と、50歳を過ぎてから得ることができる仕事は違うではないですか。
妙なプライドが邪魔をして、職種を選んだりして、自分の可能性を限定していると思うんです。
与えられた場所で一番になったほうがいいじゃないですか。そこで頑張っていれば、輝いていれば、新しい仕事や立場が連鎖的に与えられてくるのではないでしょうか。
現に私は販売職のパートから社員になって、支店長になって、今ではこうして講演のお仕事をいただくようになっています。
あの時、“お弁当売りみたいな仕事なんて”と思っていたら、ずっと専業主婦として退屈な日々を過ごして、“つまらないおばさん”になっていたのかもしれません。
三浦由紀江:今後は、シニアの女優を目指そうかな、なんて冗談半分、本気半分で考えています。
44歳で社会人デビューを果たしてから、たくさんの変化に遭遇し、それを楽しんできたので、この先もまだまだ、その傾向は続きそうですね。
仕事をはじめてから老化が止まったような気がしています。
娘からも、「お母さんは変わった。働いてよかったね」といわれています。
いつまでも元気で若々しく、新しいことにチャレンジしていきたいと思っています。
その他の講師インタビューはこちら↓↓↓
相談無料! 非公開の講師も多数。
お問い合わせください!
Speakersでは無料でご相談をお受けしております。
講演依頼を少しでもお考えのみなさま、
まずはお気軽にご相談ください。