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ルーさんがCMで「トゥギャザーしようぜ!!」と言っていた頃、説教くさくて暑苦しい男たちの多くは、「お前はルーか!」なんて言われていた。
あの頃、ブラウン管の中のルーさんは、やたらと前に出てきてうるさかったけど、その瞳の奥に、時おり何だか人の良さのようなものが見え隠れしていたのを覚えている。
それからしばらく見かけなかったルーさんが、意外なことに女子高生の支持を得てブラウン管に帰ってきた。カタカナ英語はルー語としてさらに磨きがかかり、ブログは目がチカチカするぐらいの絵文字で溢れている。やっぱりルーさんだ。相変わらずクドい!
50代で奇跡の復活を果たしたルーさんに、その生い立ちから復活の舞台裏まで、そしてこれからの活動について語ってもらった。
(text:乗松薫、photo:今井美奈)
ルー大柴:幼稚園のお遊戯で拍手をいただいて以来、役者というか表現者にあこがれていました。ただ実家が印刷屋で、私は跡取りとして育てられたんです。それが非常に嫌で。
一代で築いた祖父は、最初の男の孫だった僕をすごく可愛がってくれたんですけど、自分の人生好きに生きたいみたいな生意気な部分が子供の頃からあって。で、まぁ人前で何かやって楽しませる存在になりたいというか、それしか頭になくて、表現者になることが使命だと本気で思っていました。今考えると、もっと柔軟に世の中を見れば良かったって思いますけどね。
ルー大柴:祖父の影響で、小学校の頃から植木さんだとか森繁さんだとかは観に行っていて、コメディは好きだったんですけど、中学に入ってから母親に言われて洋画も観るようになって、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に出会うんです。それがとにかく感激で、ジュリー・アンドリュースにあこがれるようになって。ミュージカルで歌って踊って、しかも英語がしゃべれるわけですよ。
それで日本でドリームを叶えるにしても、まず海外を見てみなきゃって。跡取りやら不仲になった両親から離れたいというのもあって、高校を卒業してすぐにヨーロッパへ放浪のトリップに出ました。当時で言うヒッピーですね。オランダとかドイツとかを露天商をしながらヒッチハイクで回っていました。時には野宿したりもしたけど、楽しかったですね。
ルー大柴:祖父が亡くなったんです。で、帰ってきたら、今度は両親が離婚しました。自分で言うのも何ですけど、私は小さい時から愛されて育った人なんです。姉も2人いるんだけど、こんないいファミリーがあるのか、みたいなくらいに思っていて。
すごく自分の中で大切にしているファミリーなのに、父親と母親が離婚です。しかも2人の姉が母親の連れ子で、異父兄弟だってことも知りました。それで非常にもうガックリきて。それだけじゃなくて、高校の時にルー語のルーツでもあるアメリカンスクールに通っている人と付き合っていたんだけど、放浪のトリップから帰ってきたら彼女が事故で亡くなってしまったんですよ。ですからもう、その18~19の多感な時に、一気にいろんな経験をして、もう全て嫌になって立ち直れない、ダウン寸前になって。ガス管をくわえたこともありました。まぁ一息したら気持ち悪くなってやめましたけど。
ルー大柴:ガス管くわえたり、ウィスキーを飲んだりして荒れましたけどね。乗り越えたっていうよりは、そんなことで両親から授かった自分の人生をダメにしていいのか、そんなに弱いのかって思って。
亡くなった彼女や祖父のためにも頑張らなきゃいけない。自分がドリームを叶えて子供の頃からあこがれてた表現者になることが、みんなのためになるんじゃないかと。祖父が亡くなってから、実家も親戚の相続争いみたいなのがあって嫌になっちゃってたから、よし、じゃあ、ヌード一貫でやろうじゃないかと。私の分の財産は全部放棄して、家を出ました。
ルー大柴:アルバイトでボーイをやったりしながら、付き人をしたり、プロダクションに入ったり、小堺君と出会った勝アカデミーに入ったりしたんだけど、さっぱり売れないわけですよ。
27で結婚したんですけど、ワイフのおかげで食べていけるような生活で。30過ぎてサンが生まれても、相変わらずドリームを追いかけていましてね。
そんな時に母親から、「まだそんなことやってんの。そんなことやってんだったら、結婚もしなきゃ良かったし、子供も産むべきではなかった。女房子供を泣かすな」と言われたんです。イグザクトリー、確かにその通り。ただの役者バカだったことに気が付きまして、辛かったですけど、ドリームを捨てました。
それから、とにかく女房と子供を食べさせていかなきゃということで、多種多様なバイトをしましてね。路上でティッシュ配ったり、結婚式で司会やったり。でまぁ、そんなことやって、だんだん生活もね、ルーズじゃなくなってきまして。そこで自分探しというか、その中で食える仕事を見つけていくしかないなという感じになってきてたんです。
そうしたらある日、関根勤さんから電話がありまして、「ルーの話題でラジオが盛り上がってるから、一度オンエアーに出てみないか」って。断ったんですよ、最初は。だけど、結局出ることになりまして。そこから何かこう、活躍できるようになったんです。34ぐらいの時でしたね。
ルー大柴:これは奇跡だなと思いましたね。ドラマのちょい役では出ていたけど、テレビのレギュラーが出てきたり、ラジオをやったり。そういうことになってきましたから。
だからすごい大変なわけですよ。歩いていても声かけられたりとか。各局全部レギュラーいただいて、ルー大柴というのはもうあの当時は崖っぷちだったんで、ここで名前を売りださなきゃいけない、という気持ちで海パンにもなりました。とにかくアクが強いというか、それがいいのか悪いのか分からないけど、嫌われタレントの1位にもなりましたし。
ルー大柴:42ぐらいの時かな。だんだんそのキャラクターが飽きられてきて、レギュラーが1本減り、2本減り、気付いたらゼロになっていました。
そこから舞台が中心の生活になって、年間5本くらいやった時期もありましたね。自分の中では芝居で存在感のある役者になりたいなとか思っていたんですけど、地方に行くと、ルーさん最近出ないの?とか、どうしてんの?昔は面白かったのに、とか。何をどうしたらいいのか分からないまま時間が流れていって。
50過ぎてマネージャーが替わりまして、それが今の事務所の社長です。彼に「ルーさん、今、中途半端ですよ。役者やりたいとか言ってるけど、本当は何がやりたいんですか?」って、ある時言われたんです。目が覚めるというか、イグザクトリーそうだなと。それで、もう1回、ルー大柴という名前を世に出してやる、と。
ルー大柴:マネージャーに、50過ぎた初老のタレントを今の芸能界にカムバックさせるのは至難の業だから今までの意識じゃダメです、って言われまして。意識改革して、二人三脚で今までに無いものやりましょう、と。
で、ブログを始めたんです。最初はルー語も全く無しで書いていたんですけど、3ヶ月したら自然にルー語が入ってきちゃったんですよ。それから、どんどんどんどん増え始めちゃって。マネージャーからも、ちょっと多いんじゃないですか、なんて言われてた時に、女子高生から火が点いたんですね。
それから、NHKで「MOTTAINAI」というエコのプロジェクトが放送されたり、だんだんテレビの仕事も増えてきました。とにかく自分自身でプロデュースして前に前に出ようとしていた30代の頃とは違って、今はマネージャーにルー大柴をプロデュースしてもらっています。
もともと役者的な人間なんで、誰かに演出されていた方が自分を活かせるんですよ。だから、今のマネージャーとの出会いはデステニー、運命なんです。デステニー的な出会いがあったからこそ、奇跡的にカムバックできたと思っています。
ルー大柴:今、暗いじゃないですか。時代が。若者も何ていうのかな、ドリームが無いような気がするんですね。私が学生だった高度経済成長期の頃って、団塊世代の人たちとかが、もうとにかく日本を豊かにしようって、全部メイド・イン・ジャパンにしようって、頑張ってきたわけじゃないですか。
とにかく皆が汗かきながらやっていた時代があったわけですよ。それからある程度世の中も良くなってきて、みんな貧富の差も無くなってきたりしたのはいいけど、また今度ダウン。
少子化になるし、景気は悪くなるし、暗くなるし。だからそういう時代に私ができることはっていうと、1回だけの人生なんだからみんなが頑張ろうよ、と。例えば若者を叱咤激励して、「ドリームを持て」とか。これからはそういうことをやっていかないとね、ダメだと思うんですよ。身をパウダーにして。あ、これ、この間ちょっと偶然出たやつ。いいでしょ?結構、気に入ってるんですけどね(笑)。
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