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野沢直子 講演会講師インタビュー

独自のキャラクターとユーモア溢れるトークで、多くの人々を魅了してきた野沢直子さん。人気絶頂の28歳で単身アメリカに移住し、現在はアメリカで暮らしながら毎年夏頃に日本に里帰りしています。今回、「講演依頼のSpeakers.jp」に講師として新しく登録していただいた野沢直子さんに、アメリカでの生活の苦労や、離婚から再婚に至るまでのストーリー、自身の経験から考えるセカンドキャリアや人生100年時代を楽しく過ごす、楽しい老後についてお話しいただきました。


(text:高田晶子、photo:遠藤貴也)

7年間の芸能生活 一転、アメリカでの生活に――

――簡単にこれまでの経歴を教えてください。

 

野沢直子 21歳の時に芸能界で仕事を始めて、28歳で渡米したので、実はたったの7年間だけしか芸能界にはいなかったんです。渡米してから結婚して、3人の子どもの育児に忙殺されながらも、アメリカでバンドをやったりショートフィルムなどを作ったりなど、少しだけ活動はしていました。アメリカでは子どもの夏休みが6~8月なので、毎年この時期に日本に里帰りをしていたら、吉本興業の人に「日本に帰ってきているんだったら、その期間、仕事してみたら?」と声をかけてもらいました。それで、毎年風物詩のように、夏頃に日本で芸能関係の仕事をさせていただくようになったのです(笑)。そして、現在に至るという感じですね。

――芸能界デビューのきっかけは、所ジョージさん司会の素人参加番組『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京系)ですね。もともと芸能界に興味があったのですか?

 

野沢直子 私が中高生のころは、世の中が漫才ブーム真っ只中でした。私も友達とふざけて、ネタのようなものを考えて周りに披露していたのですが、高校生のときの相方は、たまたま木梨憲武さんの中学校の後輩。『TVジョッキー』(日本テレビ系)の一般参加コーナーでものまねを披露してチャンピオンになったノリちゃんを見て、「ノリちゃんはテレビに出て有名になって、チャンピオンになって賞金をもらっている。私たちも頑張ればお金が稼げるかも?」と、『ドバドバ大爆弾』に出演してみたのです。そしたら、高校生にして数十万ももらえてしまって、ビックリしました。そこで、私は「このままお笑いをやっていきたい」と決意したのです。

――高校卒業後は、劇団テアトル・エコーの養成所を経て、東京事務所ができたばかりの吉本興業に所属することになったのですよね。ダウンタウン、ハイヒール、トミーズなどと同期なのだとか。

 

野沢直子 「君、顔がおもろいな」と言われて、即採用されました(笑)。所属して3カ月くらいでレギュラー番組が決まりましたが、それもいわゆるバーターというもので、明石家さんまさんの出演されているテレビ東京の昼の帯番組に入れてもらったんです。1年後にはどんどんレギュラー番組も増えていき、あっという間に忙しくなりました。

 

――『夢で逢えたら』(フジテレビ系)、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ系)など、伝説的人気番組にも出演されていました。仕事は順調だったと思うのですが、芸能界を去り、渡米した理由は?

 

野沢直子 あまりに周りが面白すぎて、辟易しちゃったんですね。私は下積みをせずに、急にテレビに出て、とんとん拍子で売れてしまったので、周りの実力のある芸人やタレントに対して「やっぱり下積みがないから私はダメなんだ……」とネガティブになってしまって。芸能界は楽しかったし、たくさん友達もできたけれど、自分自身が面白い芸人なのかどうかがわからなかったし、考え出したら、どんな番組に出演していても、もやもやが晴れなかった。「あんな絶頂期によくスパッと辞めたよね」とよく言われるのですが、自分では頭打ちで、落ち目だと思っていたんです。
当時のドラマでは、主人公がよくニューヨークに行っていたので、「私もニューヨークに行こう!」と思い立ったのが、28歳だったんですね。英語も喋れないし、海外だって行ったことがなかったのに、若いときって勢いがありますよね(笑)。

 

 

アメリカでの苦労も辛さも、 今となっては面白エピソード!

 

 

――最初は苦労されたのでは?

 

野沢直子 アメリカに行った当初は、コメディクラブで舞台に出ていました。オープンマイクスといって、名前を書けば舞台に上がれる場所があるんです。英語が喋れないので苦戦していたのですが、あるとき猿のものまねをしたらウケたんです。そこで、人形を舞台に置いておいて、『2001年宇宙の旅』のテーマソングをかけて、人形が猿に変身し、マイケル・ジャクソンの『スリラー』に合わせて猿が躍るというネタで、ウケたりウケなかったりしましたね。今思うと、すごい勇気だと思うのですが、セントラルパークにいる大道芸人に混ざって、ムンクの叫びの顔をしたり、猿のものまねをしたりして、チップを稼いだりもしていました。

 

 

――初めはニューヨークにいらして、サンフランシスコに移住されるんですね。

 

野沢直子 猿の恰好をしたロックバンドもやっていて、そのライブで元夫と出会い、3日で結婚を決めました。それも若さと勢いですよね(笑)。すぐに子どもができて、元夫と2人でバンドも始めて、車で全米横断ツアーに出かけました。元夫がサンフランシスコに一時期住んでいたことがあって「一番好きな街だ」と言うので、不動産屋に行ってみたら、いい家があって、買ってしまった。今ではサンフランシスコは土地も物価もすごく高いエリアになってしまいましたが、当時はすごく安かったんですよ。

 

――アメリカでの生活と日本での生活の違いについて感じることは何でしょうか。

 

野沢直子 私も61歳になりました。自分の人生を振り返ると、アメリカでの生活のほうが長くなってしまいました。すると、毎年2カ月ほど日本には帰ってきていますが、アメリカでの生活のほうが楽だと気がつきました。住めば都といいますが、やはり慣れ親しんだ土地で、現地に友達もたくさんいるということが大きいかもしれません。あと、こんなことを言うのは失礼かもしれないけれど、日本で電車に乗ったときなどに「みんな疲れてるなぁ」と感じることが多い。しかも、東京だからかもしれないけれど、パーソナルスペースも狭く、窮屈な感じもする。サンフランシスコにもいろいろな人がいますが、もう少しリラックスしていて、陽気で大らかな人が多い気がします。

 

――アメリカでの生活の中で特に楽しかったエピソードは?

 

野沢直子 やはり車で半年ほどかけて、バンドツアーをしたことは楽しかったですね。アメリカってすごく広いんですよ。特に、アリゾナやニューメキシコなど南のほうは、ずーっと砂漠なんです。何時間走っても、サボテンと赤い岩が続く。内陸のほうに行けばずっとコーン畑が続くエリアがあります。そのときは飽き飽きしたし「もうしんどい」って思ったはずなのですが、景色がずっと変わらないことで、アメリカって本当に大きいんだと実感できて、人生観が変わった気がします。

 

 

――逆に辛かった経験もありますか?

 

野沢直子 アメリカでもニューヨークやサンフランシスコなどの都市部だと東洋人もたくさんいるけれど、田舎のほうに行くと、東洋人を見たことがないという人が多くて、興味本位に上から下まで不躾に眺められたことはあります。東洋人だと誰もが人種差別的なことは経験すると思うのですが、サンフランシスコに住み始めたばかりのときに、子どもを連れてバス停で並んでいたら、突然、老婆に「国に帰れ」と言われ、バスに乗り込んでもその老婆に「お前の座る席はない」ようなことをたくさん言われたことがありました。さすがに頭にきて、口汚い言葉で言い返していたら、バスの乗客が味方してくれて、その老婆に向かって「そんなこと言う奴はバスから降りろ」と加勢してくれたことがありました。それも今思えば、面白い経験だったのですが、アメリカに住む東洋人は似たようなことが、みんなあるんじゃないかなと思います。

 

 

人生の最終章は我慢は× 新たなチャレンジで自分を再発見して、楽しんでいきましょう

 

 

――野沢さんが講演会で話されるのは、どのようなテーマになりますか?

 

野沢直子 実は今年、離婚をしました。そして、ローンが残ったままの家を私がもらうことになったのですが、物価は高いしローンを払い続けることが結構大変で、アルバイトを始めたんです。最初はちょっと惨めだなという気持ちもあったのですが、ローン返済のために日本に帰ってテレビの仕事をするのは違うし、日本に撤退する気もないなら、やっぱりアメリカで働かなきゃと思ったんですね。
資格もないし、自分に何ができるかわからない。そこで、まずはUber Eatsを始めて、若者と一緒に高級住宅地を駆けずり回っていました。その次に、託児所の仕事を始めました。子どもたちと遊ぶ、おむつを替える、ランチの後片付け、お昼寝の支度などをやっているのですが、これが意外に楽しくて、生きているという実感がすごくあるんです。
50代、60代でも、今までと全然違う仕事を始めたり、まったく別の世界に飛び込んでみたりすることは、私にとって新しい発見がたくさんあり、すごくいい経験になっています。自分に資格もないし、バリバリ働いていたわけでもないからと、社会に接することに臆病になっている女性は多いと思いますが、私の経験談で少しでも背中を押すことができたらなと思っています。

 

 

 

 

 

――すごく励みになるお話ですね。

 

野沢直子 そうしたセカンドキャリアなどの話もできますし、離婚についての話もできます。私はすごく離婚したくてしたわけではなかったのですが、離婚してよかったと思うことが多かったんですね。私の場合は、結婚したときは相手と価値観が合っていたのですが、20~30年経つうちに、お互い気が付かないうちに少しずつ価値観がずれていって、あるとき「全然違う人になってる!」とふと気が付いた。それでも愛情があれば一緒にいればいいと思いますが、無理するのはお互いのためにもよくないと思い、「これまでありがとう」とお別れしました。とにかく我慢がよくないと思ったからです。これからは自分の人生を楽しもう、今の自分と合う人がいれば一緒になればいいと思っていたら、食い気味で再婚することになったんですけどね……(笑)。

 

――確かに、「自分でお金が稼げないから、夫は嫌だけど我慢して一緒にいる」という女性は多いような気がします。

 

野沢直子 私は「そんな我慢はもうやめましょうよ」ということをすごく言いたかったんです。50~60代なら、残りの人生20~30年を我慢して過ごすのではなく、楽しく生きていったほうがいい。それまでの人生、子どもや夫のために頑張ったのなら、50代以降は自分のために生きていきましょうというメッセージを伝えたいですね。
あと、私は樹木希林さんが大好きだったこともあり、私は昔から「面白いおばあちゃんができる役者になりたい」と思っていました。60歳を過ぎようが、夢や目標に向かって頑張ることって、生きる力になると思うんです。若いころに挫折した夢に再度挑戦するのもアリだと思いますし、とにかく人生の最終章を楽しみましょうということはお伝えしたいですね。

 

 

――テーマや切り口がたくさんおありですね! 野沢さんのポジティブでパワフルなトークに、多くの人が元気づけられると思います。講演会、楽しみにしております。

 

 

 

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