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熊本で生まれ育ち、小学生の頃はエースで4番の野球少女だった古閑美保さん。
10歳でゴルフを始め、中高時代はアマチュアの大会で好成績を残す。19歳でプロゴルファーになり、26歳で賞金女王に。
フェアウェイを颯爽と歩く「華のある人気選手」だったが、29歳という若さでトーナメントプロを引退。
持ち前の明るさと率直な話し振りが人気で、現在はゴルフイベントや講演会、トークショーなどへの出演を中心に活動中だ。
そんな古閑美保さんに、講演会講師キャスティングサイト「Speakers.jp」へお越しいただき、過去、現在、未来に渡るお話を伺った。
(text:高田晶子、photo:遠藤貴也)
古閑美保 我が家は両親と私と妹の4人家族。父が野球経験者だったこともあり、私も3歳で野球を始めました。父は「女の子だから」という考え方がなく、「美保ちゃんは生まれた時から脚の筋力が違う」「美保ちゃんならできる」「ウチの子は天才」と、父に褒められて育ちました。私は野球なんてわからなかったけれど、父と遊ぶことが好きでした。しかも、野球も上手だったんですよね。小学校5年生の時には、女の子ひとり、6年生の男子に混ざって試合にも出ていたし、県大会にもレギュラーメンバーとして出場しました。幼少期は女の子のほうが成長が早くて体も大きかったし、体力もあったので活躍出来ていたんだと思います。父から「美保ちゃんが日本で初めて女性のプロ野球選手になるんだ」と言われ、自分もそうなると信じていました。
古閑美保 私が小学校5年生の時、坂田信弘プロが坂田ジュニアゴルフ塾(以下、坂田塾)を熊本に作って、第一期生を募集していたんです。それを知った親戚が「女の子なんだから、ゴルフもやってみたら?」と勧めてくれて、野球と同時並行で坂田塾に行き始めました。ウチは両親ともにゴルフ経験もないですし、私は野球が好きでした。なにより、父との時間がとられるのが嫌だった。だから、どうしてゴルフをやらないといけないんだろうって戸惑いながら続けていました。
古閑美保 毎日、野球の練習が終わってから坂田塾に行くのですが、さすがに子どもなりにも体がしんどかった。しかも、坂田塾では打った球数を記録するんです。私は野球の練習があったので、当然他の子より球数が少ない。そこで、ゴルフか野球かどちらかに絞ってほしいと言われたので、私は、「坂田塾を辞めて野球をやりたい」と言ったんです。すると、「こんなにゴルフの才能があって、いい環境で練習ができるのに、なんで辞めるんだ」と親族会議になって、親戚が父を説得。女の子は成長期で体も変わるし、「やっぱり女の子だから」という母の後押しで、ゴルフに絞ることになりました。
古閑美保 でも、父は「ゴルフの練習が終わったら、野球のトレーニングもしよう」と言ってくれて。学校が終わったら坂田塾に行き、17~22時でゴルフの練習をして、球拾いが終わって帰ってきたら、だいたい22時半。そこから、トスバッティングや走り込みに付き合ってくれました。そもそも、私のモチベーションは「パパとママにお城を建てること」。幼稚園の卒園アルバムにも書いているくらい小さな頃からの目標でした。お城を建てられるなら、手段は何でもよかった。当時ゴルフは好きではなかったけれど、「プロゴルファーになって、パパとママにお城を建てよう」というふうに手段が変わっただけでしたね。
古閑美保 清元先生のもとには2000年~2005年の6年連続で賞金女王に君臨していた不動裕理さんや、トッププロの大山志保さんが師事されていました。私が清元先生のもとに通えるようになったのも、実は父が何度もお願いしてくれて、ようやくゴルフを教えていただけることになりました。最初、清元先生は高校生だった私に「あんたはプロでも何でもないんだから、不動の後ろで球を打っておけばいいよ」とまったく見てもらえなかった。だから、私は1年くらい不動さんの後ろをちょろちょろしていただけだったんです。高校3年生になってプロテストを受けることになった時に、やっと清元先生にスイングを見てもらえるようになりました。
古閑美保 私は鳴り物入りでプロデビューしたので、最初からスポンサーがバーッとたくさんついたんです。そこで、私は「パパとママにお城が建てられるかも」と調子に乗って浮かれていました。しかし、案の定、その後の予選会を通過できませんでした。清元先生には「スポンサーのお金で家を建てるなんてそんな恥ずかしいことはやめなさい。自分の腕で稼いだお金で自分の夢は叶えるものだ。そもそも試合にすら出られない、テレビにも映らない子がこんなに企業名の入っているウエアを着るのは恥ずかしいことなんだから、お金返して来なさい。」と怒られました。そこで、やっと「ヤバい」と思って、真面目に練習に取り組みだすんです(笑)。
プロになったからといって、すべての試合に出られるわけではありません。予選会があって、上位に入らないと予選会を通過してトーナメントには出られないし、トーナメントに出てシードを確保しなければいけないのに、最初から躓いてしまって。それからは心を入れ替え、不動さんの後ろについて練習するようになりました。日本一の不動さんと同じことができなければ、追い付き追い越すことはできないと思い、とにかく不動さんと同じ練習メニューをこなすように努力しました。清元先生の教えは、「ゴルフはやればやっただけ」だったので、ゴルフに費やす時間も球数も増やし、体力をつけるために食事を変え、睡眠の質も上げるようにしたり、当時の生活すべてが「ゴルフのため」でしたね。
古閑美保 この年は初優勝の3カ月後にも2勝目ができたので、翌年には熊本に家を建てられました。念願の「パパとママへのお城」です。目標は達成したので、私がゴルフを続ける意味はなくなったのですが、清元先生はすぐに気が付くんです。すぐに喝を入れられました(笑)。「2勝くらいの情けない成績で終わるわけにはいかないんだよ。5勝くらいできる選手に育ててあげるから」と言われ、私も火が付いたといいますか……。
古閑美保 本当のトッププロは不動さんはじめ、賞金ランキングの上位5人くらいだと思っていたので、私は自分のことを「トッププロではないただの人気選手」だと思っていました。優勝争いには食い込めるようにもなったけれど、それだけでは「実力はそこそこのプロ」です。ただ、知名度はあったので、賞金より契約料やスポンサー料のほうが高い「他で稼ぐプロ」。清元先生からも「腕以外の稼ぎのほうが高いプロだから、カッコ悪いよ」と言われて、そこまで言われるんだったら、1回くらい賞金女王になってやろうと覚悟を決めたのが、23歳くらいのときですね。清元先生もたきつけるのがうまいんですよ。
古閑美保 4年くらいは頑張りましたね。この時点でプロ入りしてから11勝していました。すると、初めて清元先生に「賞金女王になって、日本で一番になったんだから、どんなことでもいいから自分の価値観でゴルフについて語ってきなさい」と後押しされ、バラエティ番組などメディアに出るようになりました。シーズンが終わった12月だけで、30本くらいの番組に出ましたね。基本的にはゴルフウエアを着て、クラブを持って出演しました。それを見た子どもたちが「ゴルフって稼げるんだ」と魅力的に思ってくれて、ゴルフを始めてくれたらうれしいという思いもありましたし、顔と名前を売ることはスポンサーにとってもいいことです。清元先生からしても「腕が伴ったから、ゴルフの試合以外でも稼いでいい」という判断だったんだと思います。
古閑美保 長年ゴルフで体を酷使していると、やっぱり経年劣化してくる部分が出てきます。私の場合は左手首の筋繊維の損傷だったのですが、クラブくらいは振れるし、ゴルフもできました。ただ、感覚的に違和感があって気持ちが悪い。そのうえ、無理をして痛めるのが怖くなるので、逃げのゴルフになってしまう。深いラフから出すだけなど、一打諦めなければいけなくなるゴルフが続くと、ストレスがたまります。食事もトレーニング法も練習内容も変えて、2010年にも優勝はできました。でも、やっぱり自分のゴルフではない。優勝した直後には辞めようと決意していましたね。
古閑美保 手術をして辛いリハビリをしてまで続けたいと思うほど、ゴルフが好きじゃなかったんですね。しかも、私の道しるべである清元先生が脳梗塞で倒れられて、清元先生がいなかったら、もうゴルフはできないとも思いました。それほど大きな心の支えだったので。清元先生に「もう辞めたい」と伝えると、麻痺が残って言葉にはならなかったのですが「まだ早いよ」と言っているようでした。でも、笑っていたので、多分わかってくれていたかな……。自分なりに最後の年は集大成だと思って頑張りましたね。大好きなお酒も10カ月断ちました。この年が最後って決めたから、本当にゴルフに向き合おうと思って。
古閑美保 「ああしていれば」「こうしていれば」と思い残したことはたくさんあります。達成感はないけれど、かといって、戻ろうという気は全くないですね。怪我がなければもしかしたらあと2~3年は続けていたかもしれないけれど、自分のベストな状態でゴルフができないのが嫌だったし、それだけは譲れないところでしたね。
古閑美保 講演では、これまで話してきた生い立ちやゴルフについてなど、もっと詳しく話しています。清元先生についての話なら無限にありますよ(笑)。日本女子ゴルフの課題や最近の選手などについても話すこともありますし、講演に来てくださった方のスイングを見ることもあります。私は夢をつかみ、叶えました。日本のゴルフでは一番になったという実績もありますので、話を聞いてくださる方の何かの参考になればと思っています。
古閑美保 私は昨年40歳になりました。これから5年くらいかけてやりたいのが、子どもの体の基礎を育む施設を作ること。私も幼少期からスポーツをやって来たので、子どものベースになるようなことを提供したいと思っているんです。生後半年くらいから9歳までの子どもを対象として、足底筋を鍛える施設を作ろうと考えています。
古閑美保 私は小さいころから父と川で遊ぶことが多かったんですね。ロープをつけて、川の中を歩くのですが、滑りやすいところもある。命綱があるので滑っても大丈夫なのですが、次第に足の裏で地面をつかんで、川のなかでも上手に歩けるようになっていきます。それがスポーツをするにあたって体の基礎作りになっていたんだと後から知りました。足底筋は8~9歳までしか鍛えられません。だからこそ、小さいころから水の中を歩かせたり、足裏で地面をつかむ感覚を覚えさせたりできる施設を作りたいんです。足底筋に関しては研究者もたくさんいます。保育士さんや医学療法士など専門家とタッグを組みたいと考えていて、スポーツ医学も日々進歩しているので、私も勉強しないといけないと思っています。
古閑美保 子どもって、9歳まではみんな天才なんですよ。野球でもサッカーでもバスケでも剣道でも、どんなスポーツを選ぶにせよ、土台さえしっかり作ってあげれば、それからの伸びも変わってくる。世界で勝負できる子どもたちを輩出したいんです。それから、10歳くらいになったらどんなスポーツをやりたいかも明確になりますよね。私はゴルフなら教えられるし、ゴルフのためのトレーニングやケアは10歳くらいからやってあげたいですね。ゴルフ教室のほうは清元先生の教えで自分が目の届く範囲、少人数でやりたいと思っています。
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